平将門守り本尊 ひびり観音   曹洞宗 観音寺
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境内と近隣史跡

本堂

 
 

創建はいつ頃かは不詳。
もと茅葺であったもので、以前は本堂と庫裏を兼ねていました。度重なる修復を経て現在に至っています。
日常の法要はこちらで行われます。
ご本尊はお釈迦様です。

観音堂

 

安政年間(1854〜1860)頃の創建といわれる。こちらも、もと茅葺であったものを昭和48年に修復。鉄板で覆いました。方三間。入母屋造りで正面に向拝がついています。
内陣の欄間に「慶応2年9月、金5両・・・」の銘、向拝には「慶応2年2月・・彫工後藤○○・・・」の銘と見事な彫り物があります。
この観音堂の中のお厨子のなかに将門様の守り本尊、聖観世音菩薩をおまつりしています。

 

槙の木(まきのき)

 
 

「太い樹ですね〜」
「何年くらいたっているんですか?」
訪れる人に必ず聞かれますが、正直分かりません。
「300~400年位じゃないでしょうかね〜・・・」
と、なんともアヤフヤな答え方をしています。
道路拡幅によりまして、境内が狭くなり、塀が引っ込みましたので、道路にはみ出したようになっています。台風や大雪のときはとても心配です。直径15センチ位の枝が落ちてきたこともありました。
皆様下を通るときは気をつけてね。

国道356沿いの境内に立つ地蔵尊

 

よく見てください
このお地蔵様は首をカクンと傾げています
何故でしょう?
理由はこの地域の人々が、将門を敬愛する心を表現したものと思われます。
将門の時代、朝廷が将門鎮圧のため成田山に祈祷を依頼し、その後将門が戦死したことから、敵意を表し、そっぽ を向いているという、珍しいお地蔵様です。
前の道路が成田街道、画面左方向が成田山。
まさに、成田山にプイッとしてるみたいですね。
いつ頃、誰が建てたかは、銘がないので不明です。

※実際仏さま同士が「フンッ」と無視したり喧嘩したりすることはありません。念の為。。。

 

新四国相馬霊場札所

 
 

我孫子市、柏市、茨城県取手市にわたって点在する札所で、四国の八十八ヵ所の移し。こうした札所の移しは各所に存在します。
大師参りとも、八箇所参りともいわれ、春のお彼岸頃になると装束に身を固め鈴を鳴らしながらおまいりする姿が見られましたが、最近はめっきり少なくなりました。
観音寺は第29番札所になります。高知県摩尼山国分寺の移。
御詠歌
国をわけ 宝を積みて 建つ寺の 世の末までの 利益のこせり
相馬霊場にいてはリンクのページに詳しいHPを紹介しておきます。

薬師堂(やくしどう)

 

厨子に納められた薬師如来をお祀りしてあります。厨子には「天保9年・・・」の銘があります。堂内外とも傷みが激しいので修復を考えています。近年、近隣にお住まいの方がご自身で彫られた薬師仏を納めていかれました。

 

庚申塔(こうしんとう)

 
 

形態は様々で、元禄11年(1698)〜明治37年(1904)まで7基の庚申塔があります。
庚申信仰は中国の道教と深く係わりをもっています。
人間の体の中に三尸(さんし)という虫がいて、人が眠ったすきに体を抜け出し、天の神に悪事を密告して寿命を縮めてしまうというのです。そこで、60日に一度ある庚申の日に眠らずお篭りをしたのです。
それが、日本の神道の猿田彦神と結びつき、さらに仏教の帝釈天、青面金剛がご本尊とされました。怖いお顔で人の悪事を戒めています。
3匹の猿が彫られている場合があります。これは、悪事を「見ない・聞かない・言わない」ポーズをお願いしているんでしょうね。

待道権現(まちどうごんげん)

 

利根川流域の下総地域に見られる安産祈願の女人講。我孫子市岡発戸(オカホット)の待道神社が発祥と言われます。
待道の名は、妊娠した女性とその旦那様が待合わせをしたが、お互いに別々の場所で待っていたため、女性は待っている間に産気づき道端で子供を生んでしまった。それで道で待ということから、待道と言われるようになったといいます。
近年まで「マツドッ講」という農家の若妻会がありました。田植えの終わった頃、稲刈りの終わった頃、決まって観音堂に集まり、掛け軸をかけて和気藹々と歓談してました。
その待道様を祀る祠です。

 

筆子塔(ふでことう)

 
 

歴代住職の墓石の中に、「筆子中」と刻まれたものがあります。
これは学制が始まる前、寺子屋、私塾が行われていた頃、学んだ子を「筆子」と呼びました。
読み書きを教えていただいた先生である恩師、ご住職に対する感謝の気持ちを込めて墓石に名を刻んで供養し偲んだものでしょう。

将門神社(まさかどじんじゃ)

 

観音寺から手賀沼方向へ南下JR成田線を過ぎ県立湖北高校を右に見ながらさらに進むと、道が3つに分かれる。その三叉路を右方向に進んでいくと小さな祠があります。この辺りにかつては将門の出城があったと伝えられています。
 将門が戦死した時、その霊が日秀の郷に現れ、「吾は平親王将門の魂である、今よりこの地に止まり村中の老幼を守るであろう」と言って消え失せたといわれています。
 郷土史誌「湖北村誌」によれば、この地はかつて将門公が手賀村布瀬明神下から手賀沼を騎馬で乗り切り、湖畔の丘に登って馬を繋ぎ、朝日を拝したところだといいます。将門没後その遺臣たちがこの地に一宇を建立し公の霊を迎えたのがその起源といわれています

 

将門の石井戸(いわいど)

 
 

上記の三叉路を左に下ると林の中に古木の下に窪みがあります。承平2年(932)に将門が開き軍用に供したと伝えられています。
すり鉢状の井戸で、古代の作法らしい。古代史の西嶋定生先生はこのような形の井戸を「マイマイの井戸」と呼ぶと教えられました。
カタツムリのように螺旋状に掘っていったとのことでした。

日秀西遺跡(ひびりにしいせき)

 
現在県立湖北高校のある場所は、縄文時代の住居址2軒、弥生時代の住居址2軒、古墳時代の住居址188軒、歴史時代の建物跡54棟が見つかっています。
建物跡からは和同開珎の銀銭も見つかっています。炭化した米粒などがあったことなどから大きな倉庫が建っていたと考えられています。また、遺跡周辺にも多くの集落跡が確認できる事から、古代における下総国の郡衙跡かとも考えられています。
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